日本の体操の歴史

ニールス・ブックの指導風景

日本の体操は、明治の初期頃からP.H.リングによるスウェーデン体操の影響を永く受け、昭和6年には、デンマークからニールス・ブックが来日して、 彼の基本体操が披露された。この頃から体操は、 一般的に健康を目標とした基礎的な運動方法として、社会的な認識が深まってきた時代である。

昭和3年11月には、逓信省・簡易保険局が、国民保険体操を制定し、NHKのラジオ放送によって全国に電波で流され、昭和5年には、第二体操も発表され普及し、一般には「NHKのラジオ体操」と呼ばれて親しまれ、国民の健康増進に大きく貢献してきた。

昭和5年4月13日(1930年)には、「全日本体操連盟」、現在の「日本体操協会」が創設され、翌年には、国際体操連盟(FIG)に加盟し、日本の体操 の国際体操競技会への参加の道が開けた。

昭和10年には、体操により国民の健康と体位向上を計ることを目的に、朝日新聞社の主催で「日本体操大会」が毎年盛大に開催されるようになった。 その大会の内容は、集団体操による美と力の演技が中心の体操の祭典であったが、世界大戦に突入の時世であったため、昭和17年の第8回大会で中止となってしまった。

昭和20年の終戦とともに、学校や社会で広く実施されていたラジオ体操・集団体操それに武道などの実施が禁止となり、昭和26年には、再び戦後 の新しいラジオ体操が第一・第二とつくられ、この体操が、現在でも広く実施されている。また、戦前の「日本体操大会」は、「朝日体操祭」 という名称で、明治神宮競技場(現在の国立競技場)において再び開催されたが、残念ながら昭和40年代 になって開催が中止された。

昭和40年代後半には、日本体操協会と全日本学生体操競技連盟の共催で、東京体育館や駒沢体育館にて、「体操演技発表会」という名称の大会が大学生中心による一般体操の演技発表会として開催されるようになった。この発表会が、年々参加する年齢層の広がりをみせるようになり、現在では、「体操演技発表会」が、平成元年(1989年)に日本体操協会が 主催する「日本体操祭」と改名されて、老若男女の体操愛好者たちが一同に会し、盛大に開催されるところの現在のような大会に発展してきた。

平成18年(2006年)より、Gymnastics for Allをテーマと一定の審査基準に基づき、審査するコンテスト形式での体操発表会(ジャパン・チャレンジ)を開催している。初回のテーマは、「アイディア」その後、「コミュニケション」・「音楽」・「モノ」・「工夫」など、幅広い視点から多様な体操の演技が披露され、Gymnastics for Allの新しい可能性を広げる機会となった。

※「一般体操」は2024年4月1日より世界統一名称の「Gymnastics for All」に統一されました

(公財)日本体操協会 顧問 荒木 達雄