2011世界体操選手権コラム「持ち点がなくなって広がるチャンス」

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私が89年の世界選手権で19年ぶりに日本女子として種目別決勝に残った時は、ちょうど持ち点制度がなくなったときで、決勝に残った=自分にも頑張り次第、あるいは他の選手次第でメダルの可能性も考えられなくもなかったが、当時の日本としてはそんなことを考えられるレベルではなく、自分のやってきた体操をやるだけだという意識であった。
選手の誰もが、試合のその演技の為に一年365日頑張って練習して、その練習の成果をどう評価されているかというのが体操の試合の醍醐味だと思っている。しかし、その中で目標を定めて力が発揮できる人と、その為に欲が出る人がいる。持ち点がなくなるとそういう欲が出やすくなり、下手をすれば実力を発揮できないことにもなる。だからこそ、「自分の演技に集中したい」という言葉は持ち点がなくなった今の体操では重要なことなのかもしれない。
昔の日本のような国は、持ち点制があるとその差が大きなギャップになり、頑張ってもその差を埋めることはなかなか難しかった。しかし、持ち点の元となる団体戦を終えた後の個人総合では、あれだけ日本に厳しかった採点が急に平等になったのを覚えている。だから、持ち点がなくなって個人総合で頑張れば上位に行けるという期待は当時の日本女子にとっては広がったと思う。
しかし、国内でいえば、昨日までトップなのに、今日ミスしただけでメダルすら取れないということも起こりえた。特に規定があった時代は、規定、自由、そして個人総合と演技の数も多かっただけに、持ち点の意味は非常に大きかった。だからそれがなくなれば本当に強い人が勝てなくなるのではないかという考えになることもあったが、結局は強い人は常にいい演技が出来、持ち点なしで決勝一本勝負でも勝てる。そういう意味では、日本女子が今の制度でいい成績を上げ続けているのはやはり実力があってこその偉業だと思う。